前津小林文庫(以降、文庫と略す)とは、愛知県名古屋市にある社団法人の文庫である。郷土史家の故山田幸太郎氏が蒐集していた史料群を所蔵している。史料群を蒐集した山田幸太郎氏は明治二三年(一八九〇)生まれ、昭和四一年(一九六六)に没している。 地域の名士として様々な活動を行っていた。特に郷土史に関しては、名古屋温故会、名古屋史談会、郷土文化会の幹事をつとめられ、史料蒐集にあたられたという。

集められた史料については、東京大学史料編纂所の影写本にも「山田幸太郎氏所蔵文書」 (架番号三〇七一.五五-四〇)があり、また名古屋温故会で編まれた「史料絵葉書」など にも史料写真が掲載されている。

しかし残念ながら太平洋戦争時の名古屋空襲の際に、こうした代表的な史料は被災してしまったようである。蔵に収められ幸いにして戦火をのがれた史料と、戦後になってから蒐集されたものが現在文庫に遺されている。

和装本では約八〇〇冊が遺されており、東海地区を中心とした歴史に関するものの他、 易・茶・俳諧・陶芸など多岐にわたる。多くは近世の写本及び版本である。

そして特徴なのが、他家の様々な蔵書を蒐集している点にあろう。例えば延享五年(一 七四八)の櫻井「漏刻説」には、山田氏の蔵書印の他、「不忍文庫」と「阿波国文庫」、「渡辺文庫珍蔵書印」がある。不忍文庫とは、江戸時代後期の国学者である屋代弘賢の蔵書印 である。彼の没後に大部分が阿波藩の蜂須賀家(当時の当主は斉昌)に譲られ、阿波文庫に加えられた。一部分が流失したものの、大部分は近代になってから県立図書館に委託されるものの第二次世界大戦での空襲と、昭和二五年(一九五○)の火災によって焼失したという。渡辺文庫とは法科大学講師の渡辺信の蔵書印であり、大正一三年に東京大学に寄付されたといわれている。文庫が所蔵している、「漏刻説」は、屋代弘賢が所蔵していた書籍としても、また来歴が分かるものとしても大変貴重なものである。

文庫所蔵の史料については、この他、尾張国を中心とする国学者の印があり、東海地区の国学者の活動がみてとれる。

この他では、崇光天皇の即位部類記である「御即位記 貞和度」や、江戸後期の表千家の茶室の起絵図、熱田神宮の遷宮に関わる史料など幅広い。

そして何より貴重なのが、蒐集史料の購入履歴なども遺されている点にある。これらは山田氏の蒐集履歴を知ることが出来る他、近代の史資料蒐集家のネットワークの一端を解明すること出来よう。

今後、史料整理と調査を継続することによって詳細が明らかになり、東海地区の地域史 研究はもとより、近代における郷土史家の果たした役割を知ることができる文庫である。